山本慈昭が娘(啓江)と奇跡再会から300人の父親に!映画や記念館の場所は?

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2017年6月15日、フジテレビ系列『奇跡体験!アンビリバボー』では第二次世界大戦の真っ直中、長野県伊那郡阿智村で当時の国民学校(現在の小学校)の教員を兼職をしていた山本慈昭さんの無償の愛が海を越え世界を変えた軌跡が特集されます。

長岳寺の住職であった山本慈昭さんは、1945年5月1日に三つの村の村長に説得されて1年だけという条件で満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」として妻の千尋さんと2人の娘、啓江(当時4歳・長女)と生まれたばかりの純江さんを連れてからの家族への思いが引き寄せた奇跡について当たり障り無く紹介してみたいと思います。

Wikiより詳しい?山本慈昭のプロフィールと経歴・学歴

出典:https://sbc21.co.jp/

本名:山本 梅雄(やまもとうめお)
法名:山本 慈昭(やまもと じしょう)
生年月日:1902年1月25日
没年月日:1990年2月15日
出身地:長野県伊那郡阿智村
血液型:

妻(千尋)と次女(純江)を失い中国残留孤児の肉親探しを決心

小学1年生の時に放蕩三昧(ほうとうざんまい)だった父親を亡くしてからは、東京で働かざるを得ない母親とも別れて祖父母に育てられました。放蕩三昧(ほうとうざんまい)だった父親に対して身内からは葬式をまともに出来ず、8歳になった山本梅雄さんに信仰心の深い祖母から父親の供養を願って出家を懇願されたそうです。

長野の善光寺、比叡山で天台宗(仏教)の修行明け暮れる日々を過ごし、12歳の時に戸籍上の氏名の山本「梅雄」を法名「慈昭」に改名して僧侶になり、19歳の時には滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する比叡山に移り住んで修行を続けました。

ホノルル市ジャックレーンに延暦寺別院(天台宗ハワイ別院)の創設に携わって35歳(1937年)の時に長野県伊那郡阿智村に近い阿智村の長岳寺*の住職になりましたが、貧しい田舎寺だった為にの国民学校(現在の小学校)の教員を兼任して収入の足しにして生活をしていたそうです。
長岳寺は、武田信玄に亡骸を焼いたことでも知られている寺

1945年5月1日に三つの村の村長に説得されて1年だけという条件で満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」*として妻の千尋さんと2人の娘、啓江(当時4歳・長女)と生まれたばかりの純江さんを連れて、教師の立場で同行しました。
満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」が満州に渡った最後の開拓団でした

1945年5月中旬で開拓地(現・中国黒龍江省の宝清県北哈嗎(きたはま))に着いた。

1945年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾「リトルボーイ」が投下。

1945年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾「ファットマン」を投下。

1945年8月9日、日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が一方的に侵攻されて状況が一変。

1945年8月15日、日本では終戦でしたが、山本慈昭さん達は決死の逃避行の中で大きな川を渡ることができない年老いた老人を川岸に残した光景を目撃したそうです。

1945年8月30日にソ連軍に捕縛されて妻の千尋さんと2人の娘と引き離されてシベリアに連行されて極寒と飢えの中で1年7ヶ月の重労働の抑留生活を耐えました。

1947年春に家族のもとにもとに戻ると留守を守っていた母親から妻の千尋さんがと赤子の純江さんを背負ったまま川に流されて亡くなり、長女・啓江さんも亡くなったと告げられてました。

満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」は215人いたが、8割以上は戻らず、山本慈昭さんの教え子は51人のうち6人しか戻りませんでした。

山本慈昭さん悲しみに押しつぶされないためにと記録を残そうと「阿智村・満州死没者名簿」を作ることを決心しました。

残留孤児たちの支援から長女・啓江と奇跡の再会 → 300人の父親になった男の続きはPages2へ

残留孤児たちの支援から長女・啓江と奇跡の再会 → 300人の父親になった男

1964年秋に山本慈昭さんは、せめて家族や仲間たちの遺骨を拾う許可を取るために中国を訪問し、当時の中国の国務院総理の周恩来さんは山本慈昭さんを歓迎したが遺骨収集は認められませんでした。

遺骨収集が認められなかった理由として

中国の核実験を内閣総理大臣就任直後の佐藤栄作が批判し、さらに日本共産党の大会に参加を望んだ北京市長・彭真を日本側が入国拒否したことで[4]、中国側から見れば日本の新内閣は中国を敵視しているも同然といった事情があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/山本慈から引用

からだそうです。

1965年、中国黒竜江省チチハル在住の中国残留日本人から山本慈昭さんに日本にいる肉親の捜索を依頼する手紙を送ったことがきっかけで生存している中国残留日本人孤児の存在を知り、引き合せることを決意。
※翌年の1966年から文化大革命で日本人孤児と知られると迫害される恐れがあった

寺の住職としての仕事の合間に山本慈昭さんは、厚生省、外務省、法務省など各省を回り、国会議員全員にも手紙を書きましたが良い返事は得られませんでした。

1969年、満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」の一員だった田中与一さんが死の病に伏していた時に山本慈昭さんに「阿智村の子供や長女・啓江さんを助けるために中国人に渡した」事と泣きながら打ち明けられて希望が見えてきました。

1970年、NHKの協力を借りて「肉親の不明な孤児たちへの呼びかけ」と「山本慈昭さんのもとへ連絡する旨の内容」を日本語と中国語の両方で中国全土に放送されました。

1972年9月29日、当時の田中角栄内閣総理大臣と周恩来国務院総理が署名したことで日中国交正常化が成立したことで山本慈昭さんは、本格に動き出して1973年には32人の有志と共に「日中友好手をつなぐ会」を結成。
※「日中友好手をつなぐ会」のメンバーには「岸壁の母」として知られる端野いせさんもいました

1973年(昭和48年)にドキュメンタリー番組『阿智村 ある山村の昭和史』として昨年に待望の残留孤児と日本の肉親との再会第1号が実現した内容を放送されてから地道な活動の末身元の判明した孤児は1980年には177人にまで達していました。

同年(1980年)に「日中友好手をつなぐ会」のメンバーと「孤児慰問」と称して吉林、長春、ハルピン、瀋陽の4都市を滞在時間2週間で26人のメンバーで訪中調査を行いました。

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吉林では政府が認めた約30人の孤児らと面会して肉親を捜せずにいること、最後の1人まで捜すことを誓って謝罪した山本慈昭さんでしたが、ホテルの外には面会許可が得られなかった多くの孤児が座り込んでいたそうです。

この光景を見た山本慈昭さんは制止しようとする中国政府の役人に日本語で

「彼らを見捨てて日本に帰ることはできない。わかってくれ」

と山本慈昭さんの気迫に圧倒されたのか、それ以上は制止することはせずに山本慈昭さんは300人以上に孤児の聞き取りを行い、大きな反響を呼びました。

民間による運動だった残留孤児たちの集団訪日調査でしたが1981年から集団訪日調査は予算化され、ついに国を動かしました。

神は見放さなかったのか、1981年5月に聞き取りをした1人の孤児の協力によって会社を何日も休んで山本慈昭さんの中耳炎の手術跡もある長女・啓江さんの消息が判明。

1982年に2回目の訪中調査が行われ、山本慈昭さんは黒龍江省でついに長女・啓江さんに念願の対面を果たしました。

長女・啓江さんは、山村のみすぼらしい民家で36年降りに再会した長女・啓江さんは40歳とは思えない深いしわが刻まれ、共に手を握りしめて泣きじゃくったそうです。
※山本慈昭さんは、1986年まで9回の訪問調査を行いました

山本慈昭さんは、来日する残留孤児たちの支援で自宅を「浮浪閣」と名付けて

「今日から、私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来てください。私の家に来てください」

と、孤児たちや家族たちの宿泊用に開放し、1985年に「日中友好手をつなぐ会」により長岳寺のそばに支援施設「広拯会館(こうじょうかいかん)」が完成させ日本での生活に必要な日本語や生活習慣を教える場を作りあげました。

40歳になった長女の啓江さんはそれから8年後に永住帰国を果たしました。

100歳まで生きて孤児のために尽くすと誓っていた山本慈昭さんは、1987年7月に北朝鮮の残留孤児の問題のために北朝鮮へと渡っていたが持病の喘息をこじらせて亡くなる10日前に大阪中国帰国者センターの理事長だった竹川英幸さんに「後は頼むよ」と言い残して1990年2月15日、慢性呼吸不全で亡くなりました。

葬儀場は日本全国から集まった孤児で埋め尽くし、かつて満州で別れた教え子の1人が涙ながらに弔辞を読みました。孤児やその肉親たちから山本慈昭宛に送られた手紙は4万通にすべてに返事を書かかれていたそうです。
※手紙は長岳寺の門前の山本慈昭記念館に保存されています

山本慈昭さんの生涯を綴った物語「望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭」を原作とする映画『望郷の鐘 満州開拓の悲劇』が2014年から日本各地で上映を続けている。

(2017年6月時点)

送られた手紙は4万通が保管されている山本慈昭記念館の場所は?

名称:満蒙開拓平和記念館

開館時間:9時30~16時30(入館は16時まで)
休館日:火曜日(祝祭日の場合にはその翌日)、第2・4水曜日、年末年始等
入館料:下記を参照
一般>500円(団体400円)※団体20名以上
小中高生>300円(団体200円)※団体20名以上

アクセス

(車の場合)
中央道、三遠南信自動車道「飯田山本IC」から国道153号線を利用 約5分

(鉄道の場合)
JR飯田線「飯田」駅にて下車 → タクシーにて約25分

(バスの場合)
路線バス駒場線を利用(約30分)「こまんば(旧学校前)」バス停にて下車 → バス停より徒歩約10分

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