日本テレビ系列『THE突破ファイル』では「北海道の伝説の名店すみれの謎」と題して小学校に入ると間もなく両親が始めたラーメン屋「純蓮(すみれ)」ですが、親が病に倒れたことで村中伸宣さんが後を継いで5年目の時の新横浜ラーメン博物館へ出店までの突破劇が披露されます。

 

1964年に札幌市豊平区中の島で先代で母親の村中明子さんが創業したのが始まりで味噌ラーメンは現在では長男・村中教愛さんと三男ですみれ店主の村中伸宣さんが後を継ぎ、2018年12月2日に新横浜ラーメン博物館を2回目卒業してばかりの出店誘致秘話と突破劇について当たり障りなく紹介してみたいと思います。

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純連(すみれ)の歴史 – 札幌の味噌ラーメン

現在では、「純すみ系」や「村中系」という言葉も使われているのだが、管理人にはイマイチどう違うのかがわかりにくい気がしてならない。

何が違うのか調べてみたところ・・・

「純すみ系」とは、「純連」と新横浜ラーメン博物館へ出店し、全国区の知名度になった「すみれ」で修業後、独立した方々が構えたラーメン店でスープを油膜が覆った濃厚味噌ラーメンことを指す

「村中系」とは、「純連(すみれ)」の創業者である村中明子さんの味を継承したラーメンを指す

と、いうことのようです。とりあえず、純連(すみれ)の歴史について記しておきたい。

母親の村中明子さんから後を継いだ長男・村中教愛さんの場合(さっぽろ純連)

1964年8月、母親の村中明子さんが、あっさりとした味噌スープが主流だった札幌味噌ラーメンを濃厚な味噌の味わいを追求した「純連(すみれ)」*を開店。
姓名判断をする人につけてもらった

当時のラーメンの平均料金は75円ぐらいだった中で純連(すみれ)の味噌ラーメンは100円でした。(現在の料金にすると約1000円ぐらいしていた事になります。)

話題になり次第にマスコミでも取り上げられ人気店の仲間入りになるも1982年7月に店主の腰の不調により惜しまれつつ閉店。

引退を強く決意したものの店主は中島公園・豊平川付近で1983年に中央区南11条西1丁目で店を再開し、店名を純連を「じゅんれん」と誤読する人が多く、その読み方が定着していたことから「純連(じゅんれん)」に変更して再開。

1987年、母親・村中明子さんからその味の伝授をみっちりと仕込まれ長男の村中教愛さんが後を引き継ぎ、北海道札幌市南区澄川に支店を開店してから3ヶ月後先代の村中明子さんは本店を閉店。

1994年8月、北海道札幌市豊平区平岸に移転。

2008年12月22日、10年以上修業を積んだ山岸敬典さんが「さっぽろ純連」3代目に就任し、長男、村中教愛さんは東京や仙台の店舗をみている

2018年2月19日、「さっぽろ純連」3代目・山岸敬典さんが札幌店(本店を改名)をリニューアルさせて現在に至る

トンコツや豚足、アジ、昆布、香味野菜などで採ったスープに、佐渡産の味噌をベースにした味噌ダレ。表面にはラードの層が浮き、火傷をせんばかりの熱々ぶりは、まさに濃厚だが、根ショウガも効いているので意外にも後味がさっぱり
ラーメン情報・ランキング「宅麺タイムズ」から引用

 

母親の村中明子さんから後を継いだ村中伸宣さんの場合(純連すみれ)

村中伸宣さんは家がラーメン屋ということでからかわれて「ラーメン屋は継がない」と思いながらも高校卒業後は、アメリカでの放浪生活を経て和食の道へ入り、24歳で先輩に誘われドイツへ。

故・俳優三船敏郎さんの経営するジャパンレストラン三船で板前と2年ほど勤務。

日本に戻ってからは「すし郷」というお店を開店させたが1988年に父親が病に倒れたことをきっかけに母親の村中明子さんの元で修行後、1989年に創業の地でもある中の島に純連(すみれ)の名前で開店。

後を継いで5年目に新横浜ラーメン博物館への出店が長男・村中教愛さんの元に舞い込むが出店は自店の休業になることから難色を示すが・・・。

職人としてのプライドと2代目の意地から純連(すみれ)の味を再現するために新横浜には北海道の水を送り、札幌、新横浜の往復生活をしながら両店のスタッフに支えられながら1994年3月から2004年10月の間、新横浜ラーメン博物館(ラー博)に出店。

 

新横浜ラーメン博物館と創業者・岩岡洋志の出会いと出店への突破劇