酒井ひとみALS(筋萎縮性側索硬化症)で2児のママ恐怖の中で大きな決断をして選んだ生きる道とは?

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2017年1月4日、日本テレビ系列『ザ!世界仰天ニュース』では「大笑い&感動盛り沢山!!新春!仰天4時間祭り」と題して2児の母親・酒井ひとみさんに襲った恐ろしい病にきっといつか治る病気だという強い意志の持ち主のエピソードが紹介です。

10万人に1人がかかると言われているALS(筋萎縮性側索硬化症)によってやがて呼吸すらできなくなっていく恐怖の中で子どもたちの成長を見届ける為に選んだ生きる道の経緯について当たり障りなく紹介してみたいと思います。

Wikiより詳しい?酒井ひとみのプロフィール

出典:

名前:酒井 ひとみ(さかい ひとみ)
生年月日:198?年??月??日
出身地:東京都 江戸川区
血液型:―型
出身高校:東京都立深川高等学校
最終学歴:新東京歯科衛生士学校(専門学校)
備考:NPO法人ALS / MNDサポートセンターさくら会

Facebook:https://www.facebook.com/hitomi.sakai.3150

歯科衛生士として働きながら当時、5歳の長女と3歳になって間もない長男と2003年に茨城県(と福島県の県境)の町に引っ越して3年の月日が経った時に酒井ひとみさんの体に異変が起こり始めました。

子供に二重跳びを教えるために子供から縄を借りて飛ぼうと試みたところ、何度飛ぼうとしてもうまく飛ぶ事ができず運動不足かなと思う事や自宅の2階に上がろうとしたら次第に手すりを使わないと昇れない状態なっていましたが気にも留めていませんでした。

梅雨の合間のある晴れた日・・・長男にどうしても歩いて迎えに来てほしいという我が子の頼みで長女も一緒に親子3人で子供たちが大好きだった映画のエンディングテーマ曲を大合唱していた時に明らかに左足の動きがおかしいと感じたそうですが、少しでも普通に動くようになる事を信じて、会社の同僚とエアロビクスに通い始めたそうです。

エアロビクスのメンバーから「病院に行った方がいい」と強い勧めと紹介された整形外科を受診したが、整形外科的には問題が見当たらず、2つ隣りの町にある神経内科を受診するように勧められて2007年の盆休みが終わった頃に本格的な検査を始めました。

日に日に足に力が入らなくなっていく酒井ひとみさんは、神経内科の医師に「きっと、何もわからないと思う」という一言に自分の病気が何なのか何が何でも探してやると決意して東京の大学病院に通うことにしました。

神経内科に初めて行った時にMRIと神経伝達速度の検査を受けたが病名はわからぬまま2~3ヶ月後に再来院するように言われたそうです。再来院するまでに階段やちょっとした段差でさえも転ぶようになっていきました。

そろばん教室の参観日に久しぶりにヒールのパンプスを履いていった時、左足に力が入らず、まっすぐ歩けずに帰る時はスリッパを履いて帰った様子を見ていた長女のクラスメートの母親に「関節が悪いのでは?」と紹介された医師の受診のために隣の県まで行きました。

再びMRIや神経伝達速度の検査、髄液検査でも結果は同じで医師から「そこまで悪そうに見えない」と聞かされ、酒井ひとみさんは母親に以前から勧められていた東京の大きな病院を紹介してもらいましたが、通いやすい病院を紹介されました。

酒井ひとみさんは、仕事が休みの時に紹介された大学病院に通い始めて、半年近く経っていました。症状は見た目では変わったように見えなかったそうですが、歯科医院の仕事にいつ支障がでるのか気がかりでした。

恐れていたことが起こってしまいました。仕事の時ではなく夕飯を作ろうと中華鍋を熱して野菜を炒めていた時に急に足に力が抜けてしまったそうです。当たり前の日常を過ごすのが困難になっていく恐怖に支配されそうになったそうです。

今までの症状や前の病院からの紹介状を持って東京のある大学病院の医師に出会った事で何の病気なのかが分からないモヤモヤとした気持ちが払拭され、可能性のあるものを見つけ出す為に検査入院をして消去法で病気を探すことに。

年が明けた1月4日の外来で医師から「片足だけ痩せたとかないでしょ?」と聞かれ、去年の夏頃に左足だけが妙にズボンがガバガバになってきている事を告げると医師が謝罪しながら

「もっと早く診とけばよかったね。今日中に入院する手続きをしましょう。」
https://koyamachuya.com/から引用

慌ただしく入院の手続きをして1つずつ再検査をして2週間ほど経った週末に担当医から夫と一緒に来るように告げられました。現段階で可能性の高い病名を3つ挙げられたが担当医から病名の内容を語られませんでした。

家庭の医学書で調べて酒井ひとみさんは、今まで悩まされていた症状とぴったり当てはまる病名がALS(筋萎縮性側索硬化症)で平均3~5年で死に至ると記されていました。

気が動転したそうですが、翌日に子どもたちに病気の説明をしていた時に声をあげて泣いてしまったそうですが、笑いながら「ママ泣いてる!」と子供たち言われて酒井家らしさを感じて安心して何でも話せると確信し、病気を受け入れる覚悟ができた気がしたそうです。

酒井ひとみさんの体が刻々と蝕まれていく中で思った事とは?続きは2PAGEへ

その後、病院に戻って検査をせずに2週間が過ぎて20時頃に1回目の確定診断で「ALSの可能性が極めて高い」と担当医に告げられただけで病状については語られることはありませんでした。

酒井ひとみさんの可能性があるものにはチャレンジしたい気持ちを理解していた夫は、担当医に免疫異常の病気の可能性があるなら免疫抑制剤を提案したがあまり期待しない方がいいと言われたそうです。

確定診断の結果から歯科医院の仕事は夫から事情を説明してもらってすぐに辞め、酒井ひとみさんの心の奥底では、呼吸器をつけてまで生きることが家族にとって本当の幸せなのかと迷いながらも夫の叔母から紹介してもらった大学病院の教授に診察しに行きました。

紹介してもらった理由はALSと診断されてから再検査で違う病気だった人がいたと言う可能性を信じたい為に大学病院に検査入院したところALSとは断定できないとう診断結果でした。

検査入院から自宅に戻って家族で川の字になって寝た時に3歳の頃から長女は花粉症で鼻血を出ると「ママ~」と泣いていたのが「パパ~」という鳴き声に変わっていたことに夫に嫉妬してしまったそうでが、子どもにとっての1番のママでありたいと強く思ったそうです。

それから、母親として時間を過ごそうと茨城の自宅に戻って長女の同級生のママ友や隣人などとも仲を深めていくことで心に変化が生まれて生への執着を取り戻していきました。

はっきりと出たわけではない1回目の確定診断からALSの病名が頭から離れられなかった酒井ひとみさんは、少しでも落ち着かせるために症状から当てはまりそうな病名を探しては担当医に相談し、2回目の長い入院が始まりました。

入院した時に同室で病気だからと自分に限界を決めずに好きなように好きなことに生きるパワーに満ち溢れていた女性と出会い、酒井ひとみさんはその女性みたいに自由になれるのだと気付いてハワイ旅行に行くことを決めました。

ハワイ旅行から帰った酒井ひとみさんの容態は心臓が締め付けられるような痛さと呼吸が苦しくなることが増えて両親に頼み込んで病院に連れて行ってもうようになり、1人でいる時は薬を服用するようになっていました。

そして、指先と顔、首だけしか動かない体になっていた酒井ひとみさんに確定診断の時が訪れ、診断結果は酒井ひとみさんの部屋で担当医以外にも医師・研修医が集まった目の前で

「呼吸筋が機能していないから、酒井さんはALSだね」

宣告され、たくさんの目の前で涙を流し続け、たくさんの人に囲まれている中で突き放されてひとりぼっちでいるような感情に埋め尽くされそうになった時に医師から

「酒井さんには小さなお子さんが二人もいらっしゃる。そのお子さんの成長を見届ける義務がある!」
https://koyamachuya.com/から引用

という言葉を聞いて我に返った酒井ひとみさんは、当時について静かな個室で確定診断を受けていたら事実を受け止めきれずに押しつぶされていたかもしれないと語っています。

そして、酒井ひとみさんは看護師から今後について質問されて

  • まだ生きたい
  • 夫には、私と別れて好きに生きてほしい

と何度も唱えていた本音を初めて外に向けて発した相手が看護師でしたが涙がこぼれ落ちたそうです。

確定診断が告知された翌日、夫になんとか「別れよう」と伝えると夫は首を縦に振ることはせず、肺は正常の人の30%しか動いていないが「まだ生きたい」という気持ちから呼吸器を付ける事を相談すると夫は意見を言わず

「お前がつけて生きていくなら、俺はできる限りのサポートをしていくよ」
https://koyamachuya.com/から引用

とだけ繰り返し言い続けたそうです。

夫に別れ話を切り出した時と呼吸器のことで意見を言わなかった事について聞いてどう思ったのか聞いたそうですが

「全く別れる気がなかった。自分が病気のひとみを捨てて、別れる奴だと思われてるのかと思って、腹が立ったよ。」

「生きてくれっていうのは、簡単だ。でも、ALSで生き続けるのは、生き地獄だ。それを他人が決めるのは無責任で、ひとみ本人に決めてもらいたかった」
https://koyamachuya.com/から引用

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