太平洋で92日間漂流生活のはじまり

出港後、まもなくして気象ファックスが故障してしまい、天気図が取れなくなったそうです。

1994年3月7日、北緯33度47分、東経172度27分の位置にいた諸井清二さんは、あと2~3日すれば日付変更線を通過して、気象条件も変わるので本格的セーリングできると「特に以上はありません。快調に走っています」と無線の定時交信後、仮眠に入りました。
風を帆の表面でうてて生ずる揚力で水上を滑走

気象ファックスが故障していたこともあり、運悪く台風並みの大型低気圧に「酒呑童子号(しゅてんどうじごう)」は突っ込んでしまい、2度転覆したそうですが、マストとは折れ、艇体のあちこちが傷んでしまいました。

諸井清二さんは、にヨットが浮いているのが不思議なほどの浸水していた為、4時間もバケツで海水を掻き出し続けた後に船内を点検するとSSB(短波無線機)、VHF(超短波無線機)、アマチュア無線機、ラジオ、GPSの全てが破損して一切の通信手段を失いました。

自分の位置を知る方法として六分儀による天測のみでしたが、天測暦(太陽の位置が何月何日何時何分にはどこにあるということを記したもの)が必要でしたが見当たらなかったそうです。そして、補助エンジンは水浸しで動かなかったそうです。

浮かんでくる家族の面影から

「よーし、わかった。それならどんな努力をしてでも、おれは必ず生きて帰ってみせるぞ」
https://ameblo.jp/chichi-kansha/から引用

大声で叫んだそうです。

諸井清二さんは、遭難したあたりが航路からそれほど逸れていないことを知っていたようで、最後の定時交信時に近い位置にいれば捜索で発見される可能性もあると考えて、そこを基準点にして「酒呑童子号(しゅてんどうじごう)」をなるべく動かさないようにしながらバケツでの排水を続けました。
※ヨットはグラスファイバー製のため、補修うまくできず浸水は続いたそうです

スポンサードリンク

諸井清二は揺れる心を航海日誌に残していた

舵が利かなくなった時に「もしもの時のことを考え、何かを残しておかなければ」と揺れる心を航海日誌にまとめていたそうです。その日誌の内容は

3月8日 航行不能となる。

3月13日 東から西へ船が一隻。煙突が黄色い貨物船。合図をしたが反応なし。

4月27日「何もかも残り少なく不安かな」「助けてと合図をすれどノーアンサー」

4月30日「助け船まだ来ぬ先から乗る準備」「いま天気どこまで続くわが命」

5月2日 雨。「叫べどもこたえてくれないアホウドリ」貨物船、また行ってしまった。10隻目。

5月3日 霧。食料は6月中は何とかなりそう。霧晴れるが、曇り空。「漂流も2ヵ月たつと歌も出ず」

5月15日 69日目。晴れ。どこまでも希望を捨てずに。最後にチャンスが来るかもしれない。

6月2日 87日目。雨。八方ふさがり。どうすればよいか分からない。もうこれ以上進めない。人間は過去を振り返ることはできても、過去に戻ることはできない。さすがに20日間、一隻の船もいないと、あせりが出てくる。天候もいっこうに回復しそうにないし。このまま助からないように思えてくる。

6月4日 行方不明のまま、帰れないかもしれないと思いだした。頑張れ清二。

6月7日 92日目。晴れ。青い空。白い雲。光り輝く水平線の中から、一隻の船が。迷い子になったわが子を見つけた母親のように汽笛を鳴らしながら、一直線にこちらへやってきた。そして、静かに私の横に止まった。かくて、諸井さんは九死に一生を得ました。全人類は、目的なき人生を、今なお漂流中です。

https://inochi.jpn.org/から引用

1994年6月7日の朝、東の水平線上にぽつんと豆粒のような黒い影が見えた諸井清二さんは、ミラーを使ってSOS信号を送り、火箭を上げて信号紅炎に点火した後に汽笛が2回鳴らされました。諸井清二さんは、さらに手信号を繰り返すと再び、汽笛が2回鳴らされたそうです。

諸井清二さんに近づいてきた船は、ジャマイカ船籍の「ヴィエンナ・ウッド号」で、救助された場所は伊豆諸島八丈島沖でした。嫁(妻)の千恵子さんの元には「TASUKERARETA」の文字が刻まれた電報が届き、6月17日に韓国の釜山に着いた諸井清二さんの92日間漂流生活は、ようやく終わりを迎えました。

 

ハーネス(転落防止用安全ベルト)不良?で諸井清二は海に転落していた!?

気象ファックスの故障から台風並みの大型低気圧に向かっていたことを知らないまま仮眠をとっていましたが、激しい縦揺れに異様な振動と頭上で風の唸る音で目を覚まし、諸井清二さんはキャビンの窓から外を見た情景を猛吹雪の雪原のようだったと人間学を学ぶ月刊誌 月刊『致知 1998年10月号』で語っています。

張ってあったジブ(補助帆)を巻き取りに行くためにハーネス(転落防止用安全ベルト)つけてハッチからデッキに出て、マストを支えるワイヤの緩みを直してブーム(横木)に縛りつけた帆をさらにきつく締めようとして週間に海に放り出されたそうです。

先端にいているフックを艇体に引っかけて固定する命綱のハーネスラインが何かのはずみにはずれていたようです。諸井清二さんは、「酒呑童子号(しゅてんどうじごう)」から数メートル先も離れ、時化(しけ)の海に転落した場合は助かる確率はほとんど無いことを知っていました。

頭のなかが真っ白になっていたそうですが、嫁(妻)の千恵子さんと5人の子どもの顔が浮かんで家に帰らなければという気持ちの中で「神様 助けてください」と神などあまり考えたことのなかった諸井清二さんですが思わず全身全霊を集中して祈ったそうです。

すると、目の前に艇尾を見つけてウィンドベーン(自動操舵装置)に必死に取りすがり、なんとかデッキに這い上がってコックピットに転がり込んで一命を取り留めました。

 

諸井清二は遭難から3年後にヨット会社に訴訟

諸井清二さんは遭難から3年後の1997年に「遭難は命綱のハーネス(転落防止用ベルト)の欠陥が原因」だったということで神奈川県横浜市にある製造会社と兵庫県西宮にある販売会社に1,860万円の損害賠償を求めた訴訟を起こしています。

翌年には、製造会社側が和解金として800万円を支払って決着がついたそうです。

 

嫁(妻)の千恵子の正夢が話題になってドキュメンタリー番組に?

嫁(妻)の千恵子さんは、夫の諸井清二さんが遭難してから夢の中でダイニング・キッチンの椅子に座っている諸井清二さんを見て

「6月7日に帰った」

と言ってきた事を明かしています。諸井清二さんも懸命に嫁(妻)の千恵子さんが起きる直前の時間帯を見計らって自分が無事でいること念(テレパシー?)を送っていた頃だったそうです。嫁(妻)の千恵子の正夢が話題になってドキュメンタリー番組が製作されているそうです。

 

諸井清二が大塚製薬の食品を絶賛?

「酒呑童子号(しゅてんどうじごう)」が転覆した時に、艇体の損傷も激しく、浸水もしていたため、キャビン内も水浸しになっていました。生き延びるためにも食料を探した時にカロリーメイト、ボンカレー、ザ・カルシウムなど包装されているものが無事でした。

戦中戦後の食糧難時代に育った昭和飢餓世代の諸井清二さんは、食料を何日にも分けて食べつないでいく事に対しては苦ではなかったそうです。水は、夜露を集めたりして確保もしていたそうです。

 

諸井清二(漂流おじさん)は現在もコーヒー農園を経営?コーヒー農園の名前は?

2006年06月10日にブログサイト「世界最高のコーヒーを沖縄で栽培する」にて2002年頃に諸井清二さんの圃場を見に行った記事がありました。

遭難から帰還後、ヨット製造会社側との和解が成立後に沖縄本島北部にある名護市に引っ越してから東海岸に位置する東村で約1,200坪の圃場でコーヒー栽培の知識や経験がなく、誰にも師事せずに独学で取組んでいたそうです。

コーヒー農園の名前は番組終了後に更新してみたいと思います。

 

諸井清二(漂流おじさん)の影響を受けた息子たちは?