フジテレビ系列『奇跡体験!アンビリバボー』では、第二次世界大戦中にアメリカ本土を唯一爆撃し、レーガン大統領から感謝状とホワイトハウスに掲揚されていた星条旗を寄贈され、1997年9月30日に亡くなった藤田信雄海軍中尉が特集です。

 

民間人の殺傷を避けて極秘任務「オレゴン州ブルッキングス市のエミリー山に60kg焼夷弾を2個投下して山火事を起こす」ことが目的で爆撃してから戦後、波乱に満ちたアンビリバボー人生と藤田信雄海軍中尉について当たり障りなく紹介してみたいと思います。

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藤田信雄がアメリカ本土を爆撃するまでの軌跡

1932年、徴兵され佐世保海兵団に入り、日本帝国海軍の霞ヶ浦航空隊第20期操縦訓練生に合格して翌年の1933年に水上偵察隊搭乗員になりました。

1941年、完成したばかりの潜水艦伊25号の飛行長になった藤田信雄さんは、1941年12月8日未明にアメリカ・ハワイ準州*オアフ島真珠湾攻撃に参加した結果、アメリカは戦艦8隻と巡洋艦1隻を失い大きな打撃を与えました。
当時、ハワイはアメリカ合衆国の準州でした

藤田信雄さんは、真珠湾攻撃の際に乗機である零式小型水上偵察機(E14Y・連合国コード名はGlen)が不調で、攻撃前に計画されていた偵察任務に参加できませんでした。

潜水艦伊25の次の南太平洋における任務として

オーストラリアのシドニー、メルボルン、ホバートの港
てニュージーランドのウェリントン、オークランドの港

偵察することでした。

1942年4月18日、国際法上では「民間人に対する攻撃」は禁じられているのにアメリカ空母から発艦したB25爆撃機16機が初めて日本の本土(東京・川崎・横須賀・名古屋・四日市・神戸)が空襲に見舞われたことでなんとしても報復してアメリカ本土空襲をやろうと軍令部が極秘作戦を練りました。

1942年4月21日、日本海軍の中央統括機関の軍令部に操縦の腕を買われて呼び出された藤田信雄さんは、極秘の「オレゴン州ブルッキングス市のエミリー山に60kg焼夷弾を2個投下して山火事を起こす」作戦を任されました。

1942年6月5日~6月7日にかけて北太平洋のハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近での海戦「ミッドウェー海戦」で日本海軍は空母4隻と航空機約300機など失う大きな損害を受けて日本は苦境に立たさ始めていきました。

作戦で生還する自信がなかった藤田信雄さんは、出発前日の1942年8月14日に家族に宛てた遺言書を残して8月15日、横須賀より潜水艦伊25号で起死回生の策としてアメリカへと向かいました。

9月9日の午前6時に藤田信雄さんを乗せた潜水艦伊25号は、カリフォルニア州とオレゴン州の境界線の西側に浮上し、藤田信雄さんは、零式小型水上偵察機(E14Y)に奥田兵曹も搭乗させて潜水艦の甲板からカタパルト射出で飛び立ちました。

約40分でオレゴン州に入り、レッドウッドという樹木が茂るエミリー山に焼夷弾を2発投下して炎上を確認して帰艦しましたが、前夜に雨が降っていたため森林はとても湿っていたことで爆弾の効力はほぼなく1本のレッドウッドを焦がして倒しただけで失敗しました。

9月29日、藤田信雄さんは2回目の爆撃を行うため出撃し、空襲を成功させていますが思った戦果はありませんでしたが、太平洋戦争で、ただ一度だけ行われたアメリカ本土への爆撃になりました。

藤田信雄さんは、帰艦ができなかった場合は「資料は海に捨て、機は破壊後に自身は自害」という打ち合わせをしていたそうです。

 

WIKIPEDIAより詳しい?藤田信雄のプロフィールと経歴・学歴

 

出典:https://ameblo.jp/

名前
(読み方)
 藤田 信雄
(ふじた のぶお)
生年月日  1911年10月??日
死没日時  1997年9月30日
出身地  大分県豊後高田市
血液型  
身長  
体重  
出身高校  
出身大学  
職業  
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