土用の丑の日といえば『うなぎ』を思い浮かべると思いますが「う」のつく食べ物、「梅干」「瓜」「うどん」「牛肉(うしにく)」などを食べることでも精をつけられると言われていますことをご存じでしょうか。

蒲焼

出典:http://www.inageya.com/

土用の丑の日は夏だけではなく、厳密には土用は春、夏、秋、冬の年4回あります。特に夏はスタミナ食としてうなぎの消費量は著しくアップしています。食べる機会はあると思いますが、意外に『うなぎ』について知らないことがあると思います。当たり障りなくまとめてみたいと思います。

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(うなぎの)蒲焼の歴史

日本人がうなぎを食べ始めた最も古い歴史は、約5000年前。縄文時代の貝塚から、うなぎの骨が出土しているそうです。うなぎが記録として登場するのは、「風土記」(713年)に初めて書かれています。

その次に、有名な「万葉集」(759年)に歌われています。大伴家持が吉田連老(石麻呂)に贈った歌で

石麻呂に 吾れもの申す夏痩せに よしといふものぞ むなぎとり召せ
(石麻呂さんに申し上げます。夏痩せに良いそうですから、うなぎを捕ってお召し上がりなさい)

「武奈伎(むなぎ)」とはうなぎの古称で院政期頃(白河上皇の1086年から平家滅亡の1185年頃)になって「うなぎ」という語形が登場しているようです。ムナギの語源には

家屋の「棟木(むなぎ)」のように丸くて細長いから
胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から
料理の際に胸を開く「むなびらき」からなど、いくつかの説があるが、いずれも民間語源の域を出ない。
Wikipediaから引用

うなぎが、夏痩せに効くという考え方がこの時代(天平)からあったのには驚きですね。『うなぎ』が記されていはいるのですが、調理法の記載はまだこの時代には無かったそうです。
蒲焼と言う言葉は「鈴鹿家記」(応永6年:1399年)から登場します。調理法は現在とはまったく違うものだったようです。現在の調理法に変わったのは江戸時代中期以降の1750年前後だと推測されます。

それまでの蒲焼というのは、うなぎを筒切りにしたり、小さめのウナギを丸のまま串を打ち、そのまま焼いて味噌や酢をつけて食べていたようです。その姿形が蒲(がま)の穂に似ていたことから、「蒲焼」と呼ばれるようになったと言われています。

他にも、うなぎを焼いた時のかんばしい香りが転化して、かんばや→香疾(かばや)→蒲焼になったと言う説もあるようです。

うなぎ一本串

出典:http://www.unasige.com/

上記の画像は上から醤油、味噌、塩焼きです。

塩焼き、味噌焼きは現在の蒲焼とは違う味ですがどちらも美味しく調理する事ができました。  しかし、一番上の醤油の掛け焼きだけは、ウナギからにじみ出る脂で、何度醤油を掛けても皮に弾かれて味がしみ込まずに、美味しいと表現できる料理ではありませんでした。
現在の蒲焼の誕生には「醤油」と、「味醂」「酒」「砂糖」などの甘み調味料の普及と同時に、ウナギを生きたまま裂くという技術が先行しなくては完成されなかったと推測されます。
うなぎ雑学から引用

 

室町時代までは塩で食べたり、酢みそ、辛子酢で食べられ、(室町時代)末期には、ぶつ切りしたうなぎに醤油やお酒、山椒味噌などで味付けした「宇治丸」と呼ばれる蒲焼料理が登場していたようです。
※山椒みそ、醤油の味付けは山岡元隣著「増補食物和歌本草」(1723年)に記されている内容です。

この料理は、近江の宇治川のうなぎが大変美味だった事が由来と言われています。 蒲焼が現在の形になったのは18世紀、天保年間(1781年~1789年)に千葉県の野田、銚子で造られる関東醤油(濃い口醤油)の普及に合わせて醤油味の蒲焼が普及し始めました。
※現在のヒゲタ醤油は、五代目当主田中玄蕃濃い口醤油を作り出したそうです。

当時、醤油は主に関西から入って来ていたのですが、濃い口醤油が江戸の人の嗜好に合ったようで大流行したそうです。

江戸でも1800年頃までは、関東風と関西風が混在して売られていたようです。しかし、関東風だけが着実に進歩して江戸の食文化の代表として定着。江戸での関西風の蒲焼はだんだん姿を消していったそうです。この時期に確立されたうなぎの蒲焼の料理法は、完成された当時から現在まで変わらず続いているようです。

 

関東風・関西風の違いは?続きは次へ