2017年6月20日、朝日放送『コレ誰?!偉人伝 ナニした!?大調査団』では「知られざる日本の偉人を大発掘2時間SP」では日本初の本格的インドカリーのメニューに「恋と革命の味」というタイトルが付けられているインドカリー誕生の裏にある命がけの恋をした偉人中村屋のボースの物語が特集されます。

 

1927年6月12日中村屋総料理長としてラス・ビハリ・ボースが伝えた純印度式カリーの販売を開始した「新宿中村屋」が「恋と革命のインドカリーの日」と定めた恋と革命の味誕生の裏にある命がけの恋について当たり障り無く紹介してみたいと思います。

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Wikiより詳しい?ラース・ビハーリー・ボースのプロフィールと経歴・学歴

出典:https://www.nakamuraya.co.jp/

名前:ラース・ビハーリー・ボース
ヒンディー語:ラース・ビハーリー・ボース रास बिहारी बोस
英語:Rash Behari Bose
通称:中村屋のボース
生年月日:1886年3月15日
没年月日:1945年1月21日
出身地:イギリス領インド帝国、ベンガル
血液型:??型
配偶者:相馬俊子(新宿中村屋の相馬家の娘)
家族構成:長男・正秀、長女・哲子

備考:新宿中村屋の相馬家の婿、日本に本格的なインドカレーを伝えた人物

政府新聞の書記を務めていた父親のビノド・ビハリと母親・ブボネンショリの長男として生まれ、インド4階級の2番目の武士の階級で幼少期は母方の叔父のもとで育ちましたが父親の転勤で転々とした生活を送ったそうです。

学生時代に革命に燃える青年達に広く読まれた「サラット・チャンドラ」がきっかけでの革命家精神が目覚めて学業を捨てインド兵としてウイリアム要塞司令官に入隊を志願したがベンガル人は身体特徴から兵士に向いていないという理由で任官を拒否されました。

その後も志願し続けましたが拒否され続け、父親から強制でイギリス植民地政府の官吏として森林研究所化学部門ので事務主任を務めながらインド国民会議に参加や独立運動、爆弾製造の部品や薬品を密かに調達していました。

1912年12月23日にデリーに入ったインド総督を務めていたチャールズ・ハーディングの暗殺未遂が2年後の1914年に主犯と判明されて懸賞金12,000ルピーをかけられラホールの反乱も密告で未遂に終わってしまい、武器を入手するため日本に渡ることを決意。

 

中村屋のボースと相馬俊子(愛蔵と黒光の娘)の恋とは?

アジアで初めてノーベル文学賞を受賞した詩聖のラビンドラナート・タゴールさんが日本行きを計画していることをしり、親類と偽って1915年6月5日に神戸に上陸。京都経由で同月8日に東京へ。

1915年7月28日、中国の革命家・孫文と出会ってから互いに心の底まで打ち明けて親しくつきあうようになり、多量の武器をインドに送ろうとした矢先に船がイギリス官憲に見つかり、ラース・ビハーリー・ボースさんの密入国がイギリスに発覚。

イギリスのお尋ね者のラース・ビハーリー・ボースさんに11月28日に国外退去命令が下りました。

中国の革命家・孫文が、自由民権運動の結社の玄洋社三傑の1人でアジア各国の独立を唱える頭山満さんを紹介したことで退去期限の1915年12月2日を翌日に控えた12月1日の夜に逃走して新宿中村屋の相馬愛蔵さんと相馬黒光さん夫妻に3カ月間半かくまわせてもらいました。

イギリス政府による追及の手は1918年まで続きましたがラース・ビハーリー・ボースさんは日本各地の17箇所を転々と移り住みながら逃亡を続けていた時の連絡係を務めた新宿中村屋の相馬愛蔵さんと相馬黒光さん夫妻の娘(長女)・俊子さんと結婚。

出典:https://www.nakamuraya.co.jp/

1923年には日本に帰化してインドの独立運動に没頭できるようになり、1男1女を授かりました。

中村屋の敷地内に新居を建て生活していましたが、1925年に相馬俊子さんが26歳の若さで肺炎により死去。

 

中村屋のボースと呼ばれ恋と革命のインドカリーの味誕生と始まり

少し時代を遡りますが1901年に勤め人を嫌いだった相馬愛蔵さんが東京帝国大学(現・東京大学)赤門前のパン屋本郷中村屋を買い取ったことが始まり。

相馬愛蔵さんと相馬黒光さん夫妻の娘(長女)の俊子さんとラース・ビハーリー・ボースさんが結婚したこと、カリーライスを作り振る舞ったのが縁で1927年6月12日、ラス・ビハリ・ボースさんが中村屋総料理長として伝えた純印度式カリーの販売を喫茶部を新設とともに開始。

 

純印度式カリーとは?

純印度式カリーが生まれる前の日本のカレーは、インドからイギリスを経由したカレー粉と小麦粉で作る英国式カレーでインド独立運動で活躍したラス・ビハリ・ボースさんは「日本のカレーは辛いだけで油も悪くて胸がムカムカして旨くない」というものだったそうです。

今現在のカレーのように「辛さ、甘さ、酸味」といった味の調和がなく、ラス・ビハリ・ボースさんは「食べた後に辛さが沸いてくるものではなくてはならない」と当時の純印度式カリーは

  • お米はインディカ米
  • 強烈な香りのするスパイス
  • 骨付きのゴロっとした大きな鶏肉

で本場インドのカリーだったそうです。そこからルーが浸透しやすくモチモチ感がある白目米に変えました。暫くすると次第に売り上げが伸びていき、純印度式カリーは中村屋の名物料理になったそうです。

当時、洋食屋のカレーの値段は10銭から12銭ぐらいだったそうですが、中村屋のカリーは80銭と約8倍のしていましたが飛ぶように売れたそうです。
※1925年の時、たまご1個が7.8銭

 

恋と革命の味とは?

その後もインド独立運動を進めていたラス・ビハリ・ボースさんは、ドイツでの活動していたスバス・チャンドラ・ボースさんと日本政府の援助を受けてシンガポールに自由インド仮政府を1943年10月に樹立。

インド解放のスローガンの下で戦っていたが、入院するほど体調を悪化して1945年1月21日に日本で死去。
※1945年6月、長男の防須正秀さんも沖縄戦で大日本帝国陸軍中尉として戦死している

亡くなった2年後の1947年8月15日、インド国民の蜂起によってデリーの赤い城においてジャワハルラール・ネルーの独立宣言をもってインドは独立しました。

ラス・ビハリ・ボースさんは、相馬愛蔵さんと相馬黒光さん夫妻の娘(長女)の俊子さん出会って結婚していなければ、本格的インドカリーは日本に浸透していなかったかもしれません。

ラス・ビハリ・ボースさんは、逃亡生活の真っ只中で結婚し、相馬俊子さんに自分を愛しているなら身を投げる覚悟があるか試した事があるそうです。

相馬俊子さんは、実際に岸壁から身を投げようとして自分を愛してくれていることを知り、自分の愚かさと謝罪で号泣しました。

相馬俊子さんが亡くなってからもインド独立運動を続けながらも日本に残って娘、息子に愛情を注ぎ続けていたそうです。

恋と革命のインドカリーは、ラス・ビハリ・ボースさんと相馬俊子さんとは夫婦愛と日本とインドの架け橋の結晶と言って過言ではない物語なのかなと思いました。