2016年8月11日、テレビ東京系列『日経スペシャル カンブリア宮殿 ~村上龍の経済トークライブ~』では地ビールの製造にはじまり、ホテルやレストランの運営など、多角的な経営を行い、地元経済を潤している株式会社わらび座 取締役会長 小島克昭さんが出演です。

 

秋田県仙北市にある劇団わらび座を中心とした東京ドーム2個分のエンターテイメントリゾート施設で年間200公演を行い、劇団四季や宝塚歌劇団に次ぐ規模の劇団「わらび座」について当たり障りなく紹介してみたいと思います。

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Wikiより詳しい?小島克昭のプロフィール

出典:

名前:小島 克昭(こじま かつあき)
出身地:北海道

 

秋田県仙北市にある劇団わらび座とは?

1948年7月、吉祥寺の前進座にて日本共産党党員芸術家会議の席上で野坂参三議長、徳田球一書記長などから要請を受け石油会社の幹部技術者として南方資源地帯に赴任していた原太郎さんは、同年8月に日本共産党の文化工作隊でが「わらび座」の前身「海つばめ(第一次)」が創立されました。
※文化工作隊とは、当時の日本共産党が大衆の中に入っていくために組織された文化活動を行う集団

原太郎さんは、仕事の片手間に活動をしていましたが、原太郎さんが1950年に原太郎さんが帰還者楽団に参加することとなり、一旦解散してしまいました。しかし、帰還者楽団は、ソビエトのものを中心に扱うべきという考えと日本の素材を中心に扱うべきという原太郎さんの考え方が合わずに原太郎さんはすぐにの帰還者楽団をやめました。

終戦からわずか5年で朝鮮戦争が始まったことに心を痛めて石油会社を辞めて、帰還者楽団を辞めた雨宮すみえさんと一緒にニコヨンと呼ばれた労働者たちにアコーディオン片手にフォスターの歌曲やロシア民謡などを新宿のハコバン(ニコヨン現場のたまり場)で聴かせて音楽活動を始めました。
※ニコヨンとは、1949年6月から東京都の失業対策事業として職業安定所が定額日給を240円と定めて支払う日雇い労働者

ニコヨン現場での予想以上に反響から、わらび座の前身となる文化工作隊によって「海つばめ(第二次)」が結成され、のちに新演劇研究所を設立する若者たちが手伝うようになり、メンバーも徐々に増えていきました。

1952年5月1日、デモ隊と警察部隊とが東京の皇居外苑で衝突した騒乱事件「血のメーデー事件」で、海つばめは舞台芸術家組合の先頭になって警察隊と対峙したために目をつけられるようになり、東京での活動が困難となり、翌1952年、「海つばめ(第二次)」をポプラ座と改名し北海道の各地を巡演するようになりました。
※戦後の学生運動で初の死者がでました

1953年6月、ポプラ座から「わらび座」と改名して秋田の農村に移って活動を始めたが、1956年に座員が芸術上の考えの違いから去っていった事が引き金となって次々と退座者が出始め、残った座員が座の立て直しで持った総会で、たまたま14人全員が真二つに分裂して1957年に「かかし座」ができました。
※わらび座の名称は「黄に紅に花は咲かねどわらびは根っ子を誇るもの」ということにちなんでいるそうです

「血のメーデー事件」以後、中国へ行っていた原太郎さんが帰座して「わらび座」と「かかし座」の面々から事情を聞き、行動の方針や未来への展望、仕事の困難の打開、人間関係などを示し、解決して座を再び まとめました。

1971年3月22日に「株式会社わらび座」として株式会社化しました。

1970年代は、全国的に市民運動が活発化して全盛期だったこともあり、「わらび座」の民俗的・郷土的な芸能は、地域の人々との心を繋ぐ役割を果たし、1977年に“農作業体験修学旅行を始めました。
※都市部の学校からのニーズが高く、年間150校(約2万人)が参加しており、受け入れ農家は700軒以上。生産者から各種農産物を直接取引するようになった産地直送のきっかけを作ったとも言われているそうです

1980年代になってからの社会経済環境は非連続・現状否定型で地域社会の崩壊へと変化していったことで、昔ながらに劇団員たちが全員同じ待遇で共同生活を送るスタイルでは、高い帰属意識を生んでいましたが、自己革新の気風を希薄化させて環境変化への対応力を失った「わらび座」は倒産寸前へと追い込まれました。

カリスマ性のある原太郎さんを頼り切っていましたが、1983年からで俳優として活躍し、俳優養成所の指導者を務めていた小島克昭さんがわらび座の代表取締役を務めました。

1990年初頭にアメリカ オレゴン州アシュランド市のシェークスピア劇場を視察した時に客寄せ用にボクシングの試合と併行してシェークスピア劇を演じたところ、ボクシングが大コケして集客困難と思われたシェークスピア劇の方が大成功した風景を目の当たりにしました。

「秋田県の内部資源を掘り起こして、それを活かすべきだ」と確信した小島克昭さんは、秋田の農村部に根を下ろし、民謡を元にした新しい舞台芸術を創造することを目指した創設者・原太郎さんの理念を再確認して事業の再構築に取り組み出しました。

1992年に温泉を掘り当てて温泉宿「温泉ゆぽぽ」をオープンし、翌年1995年からわらび劇場でオリジナルミュージカル常設公演を開始しました。

1996年、わらび座のホームベースを「たざわこ芸術村」としてスタートさせてました。

1997年、アシュランド市などの欧米のリゾートライフを見て観劇には美味しいお酒がよく似合うということを痛感し、秋田県初の地ビール・田沢湖ビールのブルワリーパブがオープン。
※田沢湖ビールは、「アルト」「ケルシュ」は3年連続「ワールド・ビア・アワードWorld’s Best」を受賞しており、評価が高い

2006年、愛媛県東温市に坊っちゃん劇場をオープンしました。

2014年4月より「たざわこ芸術村」の名称を「あきた芸術村」に変更しました。

2016年、劇団創設65周年、芸術村のオープン20周年にあたり、芸術村を舞台に国内外に秋田と東北の魅力を発信する新事業「東北芸術祭」と外国人観光客に、日本と秋田をPRする国際交流企画「日本まるごとALL Japan」と予定しています。