任天堂が2015年5月7日発表した平成27年3月期連結決算は、本業のもうけを示す営業損益が247億円の黒字(前期は464億円の赤字)となり、4年ぶりに営業黒字を確保し、スマートフォン向けゲーム参入を予定していた矢先に出来事でした。

 岩田聡

世界中のジャーナリストやファンからの哀悼の言葉であふれかえった 任天堂元社長・故岩田聡さんはグローバルリーダとして稀有な存在感を発揮された方だったのではないでしょうか。功績を振り返りながら当たり障りなく紹介してみたいともいます。

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一般的には海外メディアに掲載されている日本発のニュースの多くは、通信社発の記事のコピペで終わることが多い中で、記者が個人的な思い出や追悼の言葉を様々につづられている状況から、海外の様々なメディアの記者たちと密にコミュニケーションを重ねていたからなのかもしれませんね。

岩田聡のプロフィール

岩田聡1

出典:Nintendo Direct

名前:岩田聡(いわた さとる)
通称:いわっち、電脳部長、いわたくん
生誕/死没:1959年12月6日/2015年7月11日(満55歳没)
最終学歴:東京工業大学工学部卒業

略歴

1982年(昭和57年) – HAL研究所入社
1984年(昭和59年) – HAL研究所取締役就任
1993年(平成5年) – HAL研究所代表取締役社長就任
2000年(平成12年) – HAL研究所取締役相談役就任
2000年(平成12年) – 任天堂取締役経営企画室室長就任
2002年(平成14年) – 任天堂代表取締役社長就任
2013年(平成25年) – 任天堂米国法人 (Nintendo of America) 取締役会長 (CEO) 兼務
2015年(平成27年)7月11日 – 胆管腫瘍のため死去

1976年、高校時代の岩田聡氏はヒューレット・パッカード社の電子計算機HP-65の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助で購入後、その魅力にとりつかれ独学でプログラムを学習し始めました。

完成させたゲームをヒューレット・パッカード社に送ったところ、これに驚いたヒューレット・パッカード社は、様々な品を岩田聡氏に送られてきたそうです。

岩田聡氏が大学1年時(1979年)に、大学の入学祝いに加えローンを組んでマイコン (PET2001) を購入してからは、制限された機能の中でもプログラムを打ち込んでいったことが後のプログラマ人生の下地になったそうです。

大学在学中の時は、西武百貨店池袋本店の特にパソコン(当時はマイコンと言った)マイコンコーナーの常連客だった岩田聡氏は、そのマイコンコーナー店員が立ち上げに関わっていた、後に『星のカービィシリーズ』や『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』を生み出すこととなる「株式会社HAL研究所」でプログラマーとしてアルバイトを始め、そこでもプログラミングに熱中し、大学卒業後はそのままHAL研究所の正社員になりました。

ファミコン時代には、初期の頃から任天堂に積極的に顔を見せて、『ピンボール』、『ゴルフ』や『バルーンファイト』などの任天堂ゲームソフトのプログラミングを担当しています。

岩田聡とMOTHER2

社長就任後も機会を見つけてはプログラマとして開発現場で活動していた。『MOTHER2 ギーグの逆襲』が開発中止寸前だった時期にはプログラマ兼プロデューサーとして参加し、「これを、いまある形のままで直していくなら、2年かかります。でも、イチからつくっていいなら、1年以内にやります。どちらにしますか?」と発言し、目の前にある問題を個別に解決していくのではなく、自分以外の人にも使える”道具”(ツール)を先に作ることで制作スピードをアップさせた。その結果、プログラムをほぼゼロから1年で完成させ、手腕が高く評価されました。
Wikipediaから引用

プログラマー時代から宮本茂さんに対しては尊敬の念を抱いており、宮本茂さんの考え方や言葉を常に観察して「宮本ウォッチャー」であると自認していたそうです。宮本茂さんと初めて出会ったのは『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』の開発の時だと明かしています。

海外でのイベントでは自身が英語でスピーチを行っているのをよく見かけましたが、学生時代は英語が苦手でだったそうで、HAL研究所入社後に仕事で必要となり覚えていったようです。

2000年、任天堂(3代目)社長だった山内溥(やまうち ひろし)氏に経営手腕を買われ任天堂に入社、取締役経営企画室長に就任。2002年、42歳のときに山内溥氏から指名を受け、2002年6月1日付けで代表取締役社長に就任しました。

新生任天堂になって2004年12月、失われたゲーム人口を取り戻し、さらに拡大させようと『ゲーム人口の拡大』をテーマとして掲げ、第一弾として携帯ゲーム機「ニンテンドーDS」を発売しました。

ゲーム熟練者しか楽しめないような複雑なものではなく、初心者にも遊びやすいゲームの開発を心がけ、直感的で分かりやすい操作が特徴のニンテンドーDSは世界で2000万台近くを売り上げる大ヒットしました。

親会社の社長となって以降もゲーム開発の現場に参加し続け、GDC(Game Developers Conference) 2005の時に「立場は社長でも、頭はゲーム開発者であり、心はゲーマー」と語り喝采を浴びました。

2008年3月6日に発売された『メトロイドプライム3 コラプション』で収録されている開発者からのメッセージでは「悩みがあると痩せるのではなく太る体質で、多忙であっても疲れているように見られない」と明かしています。

かなりの読書家で、多忙な中でもビジネス書をはじめとした読書を欠かさなかったそうです。しかし、HAL研究所時代はそれほど本を読んでいたわけではなく、糸井重里さんに薦められて読むようになり、糸井重里さんへ薦める程に立場が段々と逆転していったそうです。

岩田聡氏は、糸井重里さんにMacintoshの使い方を教えたり、『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げ及びPC環境の整備の協力したことで「電脳部長」という名前で登場したり、Wii用ゲームソフト『街へいこうよ どうぶつの森』の記事でWiiのインターネット接続を担当など糸井重里さん対しては個人としても協力されていたようです。

2006年11月19日に「自分の存在理由を賭けた戦い」と、次の一手として新機軸の新世代ゲーム機「Wii」を投入しました。

2009年3月期に売上高1兆8386億円、営業益5552億円の過去最高を記録。時価総額は10兆円を突破し、Wiiは任天堂創業以来最大の普及台数(約1億台)を記録。

2011年に発売したニンテンドーDSの後継機となるニンテンドー3DSは日本史上最速となる普及台数を記録しましたが、2012年に発売したWiiの後継機であるWii Uが販売台数で大きく苦戦。

特に世界市場での販売鈍化が目立ち、任天堂も同年3月期決算より赤字に転落した。2013年には任天堂の米国法人CEOも岩田聡氏が兼任することになりました。2014年6月に胆管腫瘍を患っていたことを公表され、手術及び療養のため同年6月の株主総会を欠席しました。

2015年3月期の決算では4期ぶりに営業黒字に回復。同年6月には前年度は欠席した株主総会では議長を務め、岩田聡氏自身の体調もいったん持ち直したように見えました。

2015年3月にはDeNA(ディー・エヌ・エー)との業務・資本提携を実現させ、スマートデバイス向けのサービスを共同開発することを発表や、次世代ゲーム機「NX」を開発中であることに触れ、2016年に詳細を発表すると明言していました。

さらには5月、ユニバーサルスタジオの運営会社と、任天堂ゲームの世界観をテーマパークに展開することで合意し、事業構造の変革に乗り出した途上の最中、2015年7月11日、代表取締役社長に在職中のまま胆管腫瘍のため、京都市左京区の京都大学医学部附属病院で死去。

(2015年8月時点)

 

岩田聡氏とは一体どんな人?続きは次へ